続けた先に見えてくるもの(#^.^#)
私も、まだまだ修行中(^^♪
一日に48キロ。
平坦な道ではなく、標高差1355メートルの険しい山道を、約16時間かけて歩く。
それを一度だけではなく、山に入れる時期に一日も欠かさず毎日繰り返し、9年がかりで1000日。
塩沼亮潤大阿闍梨が成し遂げられた「大峯千日回峰行」です。その過酷さゆえに1300年の歴史で達成者はわずか2名です。
人間の限界ともいえますよね。
奈良県吉野の金峯山寺から、山上ヶ岳の大峯山寺までを往復する修行だそうです。
一日歩くだけでも、私には想像がつきません。それを9年もの歳月をかけて続ける。
いやぁ、「すごいですね」の一言では、とても片づけられませんね。
そのお話に触れて、写真への向き合い方にも通じるものを感じました。
まず、続けること。
そして、続けているからこそ、見えてくるものがある。
私にも、写真を続けてきた中で、ある時から急に見え方が変わった経験が2回あります。
最初は、風景写真のグランプリを目指していた頃です。
当時は、仕事から帰ってきたら写真誌『風景写真』。
ご飯やお風呂の時間を除けば、また風景写真。
余暇という余暇は、ほとんど作品を見ることに使っていました。
「なぜ、この写真が入賞するんだろう」
「この光の何がいいんだろう」
「構図なのか、内容なのか。審査員は何に惹かれたんだろう」
わからないから、見る。
見てもわからないから、また考える。
そんなことを、毎日毎日繰り返していました。
すると、ある時から、それまでわからなかったものが見えてきたんです。
あぁ、この作品はここがいいんだ。
この光があるから、こう感じるんだ。
だから、この写真が選ばれたんだろうな、と。
もちろん、審査員の気持ちまでわかるわけではありません。でも、自分の中で、作品の魅力とその理由がつながるようになったんですね。
2回目は、前田真三賞を目指していた時です。
この時は、一枚一枚の写真だけでなく、作品全体をどう構成するかを、ずっと考えていました。
この写真の次にはこれ。
その次には、こういう作品が必要だ。
それまで悩んでいた写真同士のつながりや、全体の流れが見えてきたんです。
一枚ずつ見ていたものが、全体として見えるようになった、と言えばいいのでしょうか。
自分では「急に見えるようになった」と感じましたが、その前には、ひたすら見て、考え続けた時間がありました。
これが、私なりの「悟りを開く」ということなのかなぁ、なんて思ったりもします。
宗教でいう悟りと同じかどうかは、私にはわかりませんけどね(笑)。
ただね、普通に考えたら、そこまでやらないですよね。
仕事から帰っても写真。休みの日も写真。
これだけ時間をかけて、何になるんだろう。
結果が出なかったら、すべてが無駄になるんじゃないか。
そんなふうに損得や効率で考えていたら、途中でやめていたかもしれません。
でも、知りたかったんですよね。
どうしても、わかりたかった。
ある意味、狂気ですよwww
でも私は、何かを突き詰める時には、このくらいの「狂気」が必要なこともあると思っています。
誰かに言われたからでもなく、続ければ必ず結果が出るとわかっていたわけでもない。
それでも気になって仕方がない。見ずにはいられない。
私が言う狂気は、そういう、理屈だけでは止められないほどのめり込む気持ちです。
「ほどほどにしておこう」と区切っていたら、私には見えてこなかったものがあったと思います。
皆さんにも同じ生活をしてください、という話ではありません。
ただ、私自身は、そこまで写真に向き合った時間に育ててもらったんですよね。
わかってから続けるのではなく、続ける中でわかってくる。
続けた先にしか、見えてこないものがある。
これは、私が自分の経験から感じていることです。
でも、見えるようになったからといって、それで終わりではありません。
写真を撮っていれば、今でも迷うし、うまくいかないこともあります。
まだ自分が気づいていない風景の見方も、表現の仕方もあるはずです。
私も、まだまだ修行中ですね。
今の気持ちを言葉にするなら、「毎日が1000日目」。
今日まで積み重ねてきたものを持って、目の前の風景に向き合う。
そして明日も、また向き合う。
1000日目を迎えたら終わり、とはいかないんですよね。
いつになったら満足できるんでしょう。人間死ぬまで修行ですね。
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